姨捨 [記憶に残っていること]
学生時代、わたしはよく信州に旅行していた。
軽井沢、白馬、戸隠....そういった観光地はすぐに飽きてしまった。
その後は小さな街を歩くようになり、訪れるようになったのが姨捨(おばすて)と言う場所。
T君のこと・その後 [記憶に残っていること]
以前このブログで「T君のこと」という稿を書いたことがある。
政治家への志を持ち、仕事を辞め秘書として政治の世界に身を置いた友人のことである。
そのT君、田島國彦君が、今回の衆議院議員選挙に、民主党から立候補していた。
選挙区は、群馬県第5区。小渕優子氏が自民党から立候補している選挙区である。
民主党にとっては、大変な苦戦を予想されていた選挙区からの立候補であった。
60年前の8月について [記憶に残っていること]
今朝、テレビをつけると、広島の平和記念式典を中継していた。
原爆投下から60年である。
60年前、昭和20年8月、わたしの母親は海軍の情報部に勤務していた。
当時17歳の女子に大切な仕事が任される筈もなく、母は事務手伝いをしていたそうである。
書類の配布も重要な仕事で、毎日の連合国側情報を情報部の軍人に配っていた。
情報書類には、B5版くらいの紙に日本列島が印刷されていて、そこには敵の潜水艦が、
ちょうど日本列島を取り巻くように書かれていたそうである。
潜水艦が発する通信電波から、日本側でも、だいたいの位置が分かっていたらしい。
位置は判っていても、当時の日本海軍は、それを沈めることが出来なかったのだろう。
母の誕生日に思う [記憶に残っていること]
昨日、7月9日は、母の誕生日だった。
1928(昭和3)年生まれだから、今年77歳になる。
いわゆる喜寿ということなので、父も一緒に一家でお祝いしようと考えていた。
ところが母は、そんなお祝いなんかいらない、と頑固に辞退するのであった。
聞けば、そういったお祝いのあとは、なぜか良くないことが起こりがちだから、と言うのだ。
「ほら、満つれば欠ける、って言うからね」と母が言った。
だから、お祝いはもっと後に残しておきたいそうなのである。
T君のこと [記憶に残っていること]
先日、年少の友人T君から葉書が来た。
転職の挨拶であった。
「5月末を以て、民主党鳩山由紀夫氏の秘書として、鳩山事務所に勤務することになりました」
「サラリーマンとして日々過ごして参りましたが、政治への思いは忘じ難く‥」と書いてあった。
そうか、そうなったのか、とわたしは思った。
夏休みをどう過ごそうか [記憶に残っていること]
妻の父は、1922(大正11)年、札幌に生まれた。
義父は、北海道大学の農学部を卒業し、愛知県武豊町の国立農試で3年間過ごした他は、
ずっと北海道の農業試験場勤めであった。
妻は、義父の転勤に従って、北海道をあちこちまわったそうだ。
農業試験場という施設は、広い土地が必要なので、街から遠く離れた原野の中にある。
それで、妻の幼少期の体験談は、東京育ちのわたしには思いも寄らないようなものが多い。
幼稚園に通う途中羊の群れと遊んだ、とか、牛が道路にいて恐くて学校に行けなかったとか。
流石に、オオカミだとか熊だとか、の話はなかったな...キツネの話は聞いたけれど。
聞き書き「山の手大空襲」 [記憶に残っていること]
1945年8月15日の終戦までに、東京都は合計130回の空襲を受けた。
その中でも、3月10日の空襲は、本所深川を中心として下町を焼き尽くす大空襲であった。
この大空襲は、「東京大空襲」として知られている。
そして、もう一つの大空襲が5月にあった。
5月24,25日の2晩にわたる「山の手大空襲」である。
3月10日の空襲で投下された焼夷弾が1700トンであったのに対して、5月24,25日は、
合計6900トンの焼夷弾を投下されている。
この2晩に、渋谷、中野、世田谷、目黒、品川、と言った地域が被害に遭い、
死者は4500名にのぼった。
-以上は、ネットで検索した「山の手大空襲」の記録である。
母は、1928(昭和3)年の生まれである。