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60年前の8月について [記憶に残っていること]

 

 今朝、テレビをつけると、広島の平和記念式典を中継していた。

 原爆投下から60年である。

 60年前、昭和20年8月、わたしの母親は海軍の情報部に勤務していた。

 当時17歳の女子に大切な仕事が任される筈もなく、母は事務手伝いをしていたそうである。

 書類の配布も重要な仕事で、毎日の連合国側情報を情報部の軍人に配っていた。

 情報書類には、B5版くらいの紙に日本列島が印刷されていて、そこには敵の潜水艦が、

 ちょうど日本列島を取り巻くように書かれていたそうである。

 潜水艦が発する通信電波から、日本側でも、だいたいの位置が分かっていたらしい。

 位置は判っていても、当時の日本海軍は、それを沈めることが出来なかったのだろう。

 

同じ8月、父親は、朝鮮半島の釜山にいた。陸軍の軍人として港を警備していた。

 港の入り口は大型爆撃機によって機雷が落とされ、実質的には封鎖されていたという。

 記録に寄れば、釜山と下関を結ぶ「関釜連絡船」は、6月20日を以て運行中止されている。

 日本は、対馬海峡を維持することも出来なくなっていた。

 もはや戦争も末期状態だった。

 母の話の戻れば、連合国の潜水艦は、太平洋側はもちろん、日本海にもいたそうだ。

 その潜水艦が、8月10日から、急に日本近海から離れ始めたのだそうである。

 書類を毎日見ていると、潜水艦はどんどん日本から離れていったそうだ。

 母は、ああそろそろ戦争も終わるのかな、と思ったという。

 日本近海から、潜水艦がすっかりいなくなったら、8月15日の終戦だった。

 「不思議だったね。でも、絶対、8月10日前には話がついていたんだと思うよ」と母が言う。

 そうかもしれない。

 8月10日を期して一斉に潜水艦が引き上げを始めるのなら、それより何日か前に、

 終戦についての何らかの合意が出来ていなければならない筈である。

 ここが、わたしを混乱させるところなのだ。

 

 もし、8月10日の前に合意が出来ていたのなら、8月6日、

 9日の原子爆弾の投下は、いったい何だったのだろうか。

 

 これは、母の体験談を元にした、わたしの考えもしくは想像にすぎない。

 ただ、母の終戦時の記憶というものは、鋭くこの一点、即ち潜水艦のことに絞られている。

 その母が、思い違いをするとは思えないのである。

 もちろん、事実は全く違っているのかもしれない。

 8月9日の長崎原爆投下によって、急遽、戦争終結が決まったのかもしれない。

 

 だがわたしは、あの当時の連合国指導部に深い疑惑の念を抱いている。


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じゅんぺい

戦争はどんどん遠くなってきているなあと感じます。
目をそむけてはいけないのですが…「はだしのゲン」を読むことが
できなかった私。昨日の新聞にもあたりさわりのないような写真しか
載っていませんでしたし…子供達に教える事ができるのだろうか??
と思ってしまいました。
by じゅんぺい (2005-08-07 06:04) 

ナツパパ

じゅんぺいさん。
重くのしかかっていた冷戦が終わっても、結局戦争は終わりませんね。
戦争というものは無くならないのだ、と思った方が良いのでしょう。
だとすれば、戦争になったらどうなるのか、を次世代の子どもたちに語り継ぐことが必要かもしれません。戦争を知らない我が身には気の重いことですが。
33年前、家にアメリカからの留学生がいました。
彼は、帰国したら軍隊に採られるかもしれない(当時アメリカは徴兵制だったんです)。そうしたらベトナムだ、と言っていました。
あのときの、彼の暗い顔と声が忘れられません。
by ナツパパ (2005-08-07 10:28) 

じゅんぺい

あぁ!!そうでした!!
事実を伝えるだけでなく「戦争は間違ったことなんだ。君たちは絶対に
こんなことをしてはいけないんだ。」ということを伝えなければいけません。
彼らの為にも!!!
by じゅんぺい (2005-08-07 18:43) 

ナツパパ

じゅんぺいさん。
子どもたちの顔を見たり、彼らのことを考えるとき、戦争には行かせたくないなあ、と思います。頭で考えて、ではなくて、お腹の底から出てくるような感情でそう思ってしまいます。
by ナツパパ (2005-08-07 19:43) 

じゅんぺい

度々すみません。おじゃましますm(_ _)m
本当です。絶対に!!!!!!行かせたくありません。
「そうしたらベトナムだ」という留学生の彼の一言を読むまで、“戦争に行く”なんてことは考えもしませんでした。やっぱり…戦争は“別世界のもの”と捕らえていたんです。もっと若い世代なら、なおさらでしょうね。
下の子にもわかるような簡単な本を探して、2人に読んであげようと思います。
by じゅんぺい (2005-08-08 05:21) 

真田 繞二

先日、飯田橋で原爆の写真展をやっていてたまたま通りかかったので見てきました。
数点の写真を見て、なんと言っていいの解らない感情がこみ上げてきました。
26年前の8/9に長崎に行きました。
まさに記念式典の当日でした。
その時に見た資料館の展示を思い出しました。
そこで感じたことですが、原爆の写真・資料等に関しては、「伝聞は何の役にも立たない」とおもっています。
世界各国の指導者と呼ばれている人は勿論全世界全ての方々に見ていただいて感じてもらわないと解ってもらえない物、言葉で説明できる物を超越してしまった「負の遺産」だと思っています。
近いうちに機会があったら娘にも必ず見せようと思っています。
by 真田 繞二 (2005-08-08 09:23) 

ナツパパ

真田さん。
わたしも、広島の原爆資料館では、同じような体験をしました。
写真や当時の品々など、視覚に訴えるものの力はすごいと思います。
でも同時に、それを説明する言葉、分かりやすい言葉も大切かな、と思います。両者を効果的に併用できたら素晴らしいですよね。
by ナツパパ (2005-08-08 19:58)