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聞き書き「山の手大空襲」 [記憶に残っていること]

 

 1945年8月15日の終戦までに、東京都は合計130回の空襲を受けた。

 その中でも、3月10日の空襲は、本所深川を中心として下町を焼き尽くす大空襲であった。

 この大空襲は、「東京大空襲」として知られている。

 そして、もう一つの大空襲が5月にあった。

 5月24,25日の2晩にわたる「山の手大空襲」である。

 3月10日の空襲で投下された焼夷弾が1700トンであったのに対して、5月24,25日は、

 合計6900トンの焼夷弾を投下されている。

 この2晩に、渋谷、中野、世田谷、目黒、品川、と言った地域が被害に遭い、

 死者は4500名にのぼった。

  -以上は、ネットで検索した「山の手大空襲」の記録である。

 

 

 母は、1928(昭和3)年の生まれである。

 

1945年当時、母は17歳で、中野と高円寺の間にあった実家から、電車を乗り継いで、

 

 毎日上大崎の海軍大学校に通っていた。

 彼女は女学校の生徒だったが学校は休校で、動員されて海軍の情報部で事務をしていた。

 1945年5月になると、頻繁に空襲もあり、上大崎まで通うのも危険になっていた。

 

 5月25日の晩は、午後10時頃から空襲警報が発令されている。

 当然、母も祖父母も空襲警報は知っていたが、避難する元気もなく、家で寝ていたそうだ。

 だが、自分の住んでいる地域が目標と知り、慌てて避難した。

 

 最初、先導役の飛行機が低空で来た。

 そして、中央線、青梅街道、甲州街道、この3本の線に沿って照明弾を落としていったそうだ。

 その、照明弾の列の間にある地域に、今度は爆撃機が焼夷弾を大量に落としていった。

 住宅街で日本家屋が圧倒的に多かったこの地域では、すごい早さで火がまわっていった。

 その炎の明るさは、まるで昼間のようであったそうだ。

 母たちの住む地域は、風向きの関係だったのか、奇跡的に焼け残った。

 

 翌朝、母は上大崎に出勤するために青梅街道を歩いていた。

 鉄道は動かなくなっており、歩いて出勤するつもりであった。

 中野坂上交差点から新宿方面を見たとき、京王帝都電鉄が見えた、と言う。

 その間は、全くの焼け野原であった。

 そして、その先もずっと焼け野原になっていた。

 

 その中を母は、新宿、信濃町、表参道、恵比寿、と歩いたそうだ。

 途中、信濃町で空襲に遭い、橋の下に隠れてやり過ごしたりもしている。 

 どこも焼け野原で、黒こげになった死体がたくさんそのまま置かれていた。

 上大崎に着くと、海軍大学校の建物は全く被害を受けておらず、

 海軍の中では、いつもと同じ業務が行われていた。

 

 

 以上が、山の手大空襲を体験した、母の話である。

 母の実見談なので、狭いところだけの話であるし、間違いや思いこみもあるかも知れない。

 実は一昨日の晩、わたしが請うて、子どもの前でこの話をしてもらったのである。

 わたしにも初めての話が多かった。

 妻や子どもには、もちろん初めての話だ。

 

 子どもに、その話がどれだけ具体的に伝わったのかは解らない。

 しかし、話の途中、黒くなった死体が多くあった、と言うところで母が絶句した。 

 ふだんはニコニコしていることの多い母が、つらいね、と言って絶句し泣いた。

 そのことが、わたしにはショックだったし、子どもにも相当ショックだったらしい。

 

 母にもつらい事を思い出させてしまった。

 でも、どうしても一度は母の戦争体験を聞きたかった。

 子どもにも聞いて欲しかった。

 

 山の手大空襲から、今日でちょうど60年になる。


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コメント 5

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かーちん

聞き伝えていくことは、私たちの大事な役目です。私も春休みに主人の実家の母に辛いかもしれないけど、話してほしいとお願いしました。主人の母は、自分が1歳の時に父親が戦死しています。その後の生活の苦しさの部分も、私は語りついで行きたいと思ったからです。ナツパパさんのお子さんもきっと語りついで行ってくれることでしょう。
by かーちん (2005-05-26 22:14) 

ナツパパ

かーちんさん。
先の戦争で、一番若手の将校だった父は、もう81歳です。母も77歳になります。今、生の話を聞いておかないと、もうじき話が途絶えてしまうでしょう。
母は、山の手大空襲の話をしたとき、戦争中だったけど、みんな笑いながら暮らしてたよ、とも言いました。そう言った話も大切だと思います。
by ナツパパ (2005-05-27 18:58) 

じゅんぺい

私の母はS16年生まれなので…どちらかというと戦後の貧乏話を良く聞きました。でも、そういう話をしていたのは親戚が集まったお酒の席。私が小学生の頃はよくしていたけれど、大人になってからはあまり聞いていませんね。
祖母の生き方などは、あまりに波乱万丈なのでいつだったか「本でも書けば?」と言ってしまったくらいです。でも、平和な今の時代から見たら、どんな人でも波乱万丈の人生だったのでしょうね。
by じゅんぺい (2005-05-28 05:38) 

ナツパパ

じゅんぺいさん。
いつも、コメント、ありがとうございます。naice!も、ありがとうございました。
戦争を経験している母は、やはり、いざという所では強いです。
肝っ玉が据わっているというか、これは敵いませんね。これからも、少しずつ話をしてもらおうかな、と思っています。
by ナツパパ (2005-05-28 19:38) 

ナツパパ

e-g-gさん。
nice、ありがとうございました。
by ナツパパ (2011-06-11 21:14) 

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